Power of Touch
今月のNational Geographic。テーマは「Power of Touch」。ヒトは触れあうことでより健康になり人間性を獲得すると書かれている。人工義手の最近の進歩が詳しく書かれておりヒトが触れあうことをいかに欲しているかを腕を無くしたヒトのインタビューなどから論じている。昨日の合気道の朝稽古、終盤の四方投げの時、トリの同門の女性が1-2回トリ、ウケを交代後、ウケの私に技をかけるのを躊躇されていた。彼女は非常に感性の鋭い方で私がひょっとしてなんらかの威圧感をもたらしているのではないかと思い尋ねると「三戸岡さん、このあたりが痛くありませんか?」と。3カ月ほど前右肩・右腕あたりに帯状疱疹ができた。最近はたまに痛みを覚えることがあるがほぼ忘れていた。私は魂消ていた。彼女は私の体感のわずかな違和感(悲鳴)を感じとり四方投げをかけるのを躊躇していたのだ。昨日は相半身片手取りのため右手同士、あるいは左手同士をトリが把持、ウケが把持される形で進んでゆく。つかむのではなく柔らかい真綿を包み込むように手のひらをそえるようにと指導されてきた。触覚のセンサーが最大限に発現するようにするためだ。私の体感は彼女に私が感じる以上に読まれていた。私が彼女から受けていた体感はふわふわのマシュマロのような感覚。戦場では私は彼女に確実に倒されていたはずだ。人間の五感、触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚、どれも大切だが胎児で子宮の中で最初に目覚めるのは触覚と聴覚、ヒトが亡くなる最後まで維持するのがやはり触覚と聴覚と聞いたことがある。そしてヒトは言語がない太古の時代はお互いに触れることでコミュニケーションをとっていたと考えられている。触覚はヒトの太古から培われた原始からの感覚だ。私の生業は消化器内視鏡、いわゆる胃カメラ、大腸カメラである。消化管の中に内視鏡を挿入し診断・治療するわけだが常に視覚の源になるレンズを有する先端部を手元のシャフト部分を意識しながらいかに自在に操るかを鍛錬してきた。消化管という生きている、しかし簡単に傷つく脆い臓器内に人工異物で硬い内視鏡を挿入し操作するためには右手、左手、そして全身を鏡のようにして内視鏡と消化管表面の感触を同時に感じながら触覚、視覚を駆使して操らなければならない。私の同級の親友に泌尿器の名医がいるが彼に以前Opeで使うダヴィンチについて尋ねたことがある。三次元の視覚を利用したこの手術支援ロボットに欠けているものは触覚だと看破していた。私と患者様の消化管の間には内視鏡が介在するが、この介在物は伝導体として患者様の身体に直接触れており私の意志を伝えている。いかに触覚のセンサーを高めて患者様の身体に優しく触れながら診断・治療を施せるかどうかが肝要だ。私の常々考えていた内視鏡と合気道の接点を見い出せたような気がする。Power of Touch、合気道の鍛錬が内視鏡に通じるのだ。ヒトの身体は本当に面白い!そして合気道、内視鏡も本当に面白い!